2014年04月05日

「白い杖」

清瀬市にあるハンセン病資料館。
近隣住民や保育施設や精神科病院関係者は馴染みでありつつ、ガイドブックには載らない、古木の並木と菜の花が素晴らしい花見スポットでありつつ、
 館内図書館の詩歌のコーナーのラインナップも実は、感涙ものでもあります。

明石海人氏などはもとより、盲人句会活動の痕跡を辿りつつ、書架に入り浸りましたりたる爛春。

「白い杖」  島洋介氏 俳句・川柳集


・白い杖握って摂理とは何か

・咲き匂うばらを見ている黒眼鏡

・その時のその日に祈り眉を植え

・眉植えてから考える日が続き

・いうなれば蒸発という島の貌

・笑っていなければバランスが崩れそう

  
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2010年02月07日

「若きウタリに」

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「ray というのは自動詞ですね。死ぬ、という意味です。これを、rayke と変えると、他動詞、殺すということに出来ます。
その複数形は、ronnu ですが、ここに人称接辞がついて変化した単語が、何になるかわかりますか? 北海道にいれば、比較的耳馴染みのある単語だとは思いますが。元来の意味そのままならば、お前たち=殺す、つまり、獲物ということでしょうかね。」

という昨年末の講座の際でしたでしょうか、アイヌ語での川柳や短歌についてのお話の際に聞いた、歌人バチェラー八重子さんのこと。
あれからずっと気になっていて昨今やっと彼女の歌集を手にすることが出来ました。

 彼女の初期の歌は、すべてアイヌ語(カタカナ表記)であったり、中期には宣教師の養父と一緒に行ったイギリスの風景をイカニモ短歌っぽく詠んでいたり、キリスト教の「主」の概念と故郷のカムイの概念とが混沌としている後期の歌とか。今後にちょっと、読み込みたいなと思いました。(女流)文学的にとか、日本近代史的にとか、あるいは社会運動的にとか、いろんな切り口で語れるような気がしつつ(実際いろんなひとがいろんな切り口で語っていたり注釈付けていて面白い)、なかなか自分なりの感想をまとめることが出来ずにいます。

モシリコロ カムイパセトノ コオリパカン ウタラパピリカ プリネグスネナ

ウタシパノ ウコヤイカタヌ ピリカプリ 忘るなウタリ 永久(とこしえ)までも

古のラメトク達の片腕もありてほしかり若きウタリに

 頭の中に渦巻くもの、アイヌイタクでの想いや自分の生き方やアイデンティティの溢れるものや、自身の環境を取り巻くさまざまな状況や事象は、そのひとつひとつを分離して解釈し続けることも出来るのでしょうけれども。それらにたぶん一個人の人格の中にあるのならば一体となって矛盾をしないのです。
 だけどそれらを自分の言葉として外に、自分の表に出すためにはただ、そのままではただ形もなく溢れて霧散してしまうかも知れない。あるいは外に出すこともままならないこともあります。そこに枠を与えて、形にするためのツールとして三十一文字の短形定型詩があるのだと、そういう試みにはとても共感したくなる魅力があります。
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2009年08月10日

熊になった少年

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僕はトゥムンチだ。
生まれたときから、そうして生きてきた。

池澤氏の朗読は、大手町の本屋の中で聴いた。
雑誌掲載で読んだ時よりも、こんなにやるせない話だとは思わなかった。

僕はトゥムンチだ。生まれながらに心が歪んでいる。
そして、そう云うアイデンティティをきちんと自覚しなければ、決してこの物語を読んではいけない。

あなたはアイヌか? ほんとうに?
この物語をアイヌイタクで語ることが出来るのか。
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2009年02月21日

イフンケ(子守歌)―あるアイヌの死

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栃堀のまつりに参加した後、長岡の恋人のところから帰る夜の高速バスの中で読んだ。まつりの経験を充分には脳内で消化出来ないままで。

「足を踏まれたら痛いと言おう!」
ていうシャカイウンドウの主張に僕は
「じゃあ貴方は誰の足も踏んでいないの?」
と問い返すスタイルが好きでいて、そういう生き方を模索していた。
栃堀のまつりでは、白さらしをギリギリと巻いた半裸の男衆が狭い小さい神社の中で酒を振り掛けられながら汗まみれで互いの身体を押合いぶつけ合う。雪やら泥やらで湿ったわらじは互いの足を踏み蹴りあって。。その床にすべった男は常に優しく助け起こされる。痛く男っぽく荒っぽい
んだけれど、無茶なケンカにはなり得ない不思議な空間での神事。

もしかすると、基本的にはそういうことなのかも知れないね。
誰もが誰の足を踏んでいないシャカイを想定するんじゃなくて、ニッポンは、常に皆が誰かの足を踏んで踏まれて痛みに耐えながら、でもそこの踏み合いに脱落しようとする人には優しい(でも容赦なくその踏み合いに再参加をさせられるべくの)手が差し伸べられる。
ふと気づけばあの時、あの場で僕もそんな役回りを背負っていた。それをすごく満喫していた。踏みつけられて打撲の青痣を発した右足の薬指などなどを抱えながら(わらじの紐の結び方は中途半端にしないほうがいいよ)。

壮絶に生き急いだ、酒井氏の足跡を書籍から辿りながら、もしも未だ存命であったなら僕の職場絡みでの接点も充分にありえたかも知れない、と思う。そういう時代の大人の世界の残存をいまの僕達は、引き受けている。あるいは彼の娘であるAinuRebelsの美直さんの講演の言葉も既に、I Messageではなくてさまざまな思いを取り込んで入念に構築されたものであることに気づく。だとしても、これからどうやって良い意味で裏切ってゆくのか。
社会のあり方やニーズはそれほど変わってゆかない。あの頃あの時代を踏まえた上で、僕達は僕達のやり方を工夫してゆく。そういうことをしてゆかなきゃいけないんだと思った。。
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2006年12月07日

「夜のミッキーマウス」

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物事を主張したり、
説得したり、
言い聞かせたり、
証明したり、
易しく諭したり、
声高に叫んで返事を求めたり、
問いかけたり問い詰めたり、
理路整然と説明したり、
比喩したり、
行間にほのめかしたり、
豊かな語彙で埋め尽くそうとしたり、
片眉を上げながら口型を「な」の形にして片手の人差し指を振り回したり、
 ささやかに
世界を変えようとしたり、
変えようとしなかったり、

そんなふうでない言葉の使い方を、久しぶりに思い出した。
こんなふうに語る言葉を扱いたいとずっと思っていたのに、
忘れていたんだ。

作者はニブい僕らのために明快なあとがきを残している。
  ------

「この詩で何が言いたいのですか」と問いかけられる度に戸惑う。私は詩では何かを言いたくないから、私はただ詩をそこに存在させたいだけだから。

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三十路も軽く超えて、こんな詩集に感服してしまうのはなんだか不覚。
いつの間にか、
いつもミッキーマウスみたいな裏声で「社交」を繰り返している僕らなんかには、自分がどこに存在したいのかも分からないでいて。。
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2006年12月03日

「リビング・エンド」

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「ワシントンへ行こうか ブッシュの頭を吹っ飛ばす。それとも、銃で脅しておいてだな、俺たちの血を注射するんだ。治療法がすぐ発見されるぜ」


グレッグ・アラキ監督の92年に製作の映画。
まだ僕が茨城で大学生をしていた頃、同じ学校のサークルの先輩から突然、渋谷で開催していたレズビアン&ゲイ・フィルムフェスティバル(今の映画祭とは違う流れのものだったらしいと後で聞いた)のパンフが郵送されてきた。
彼は、僕が入学した年に5年生として卒業。文芸部で、つきあっていた彼女さん(当時4年生)経由と残した作品を通じてしか知らないひとでしたが。
その後、その彼女さんと結婚して地元のタウン誌編集者をしていたり、一緒に詩の同人をやったりしていた頃もあったけれど、後にも先にも、互いのセクシュアリティについて触れる機会はないまま、ご無沙汰してしまったなあ。

そんなでとりあえず、10数年前に渋谷くんだりで観た映画。
HIVポジティブの診断を受けた主人公が、破天荒な恋人に巻き込まれて逃避行に向かう物語。商業ベースには乗らなかったしもう二度と観られないだろうなと思っていたら、世界エイズデー前日に地元のツタヤの棚の隅で見つけた。

当時に観た際には、HIVにまつわる死生観とか背景の様々なサブカルチュアとか、おぼろげなニュアンスでしかわからなかったけれど、今になってみるとそういうのがより具体的に見えてくる。

スヌーピーのスリッパ。ノンケ女性の親友。エコー&バニーメンとスミスのCDコレクション。イアン・カーティスの自殺方法。

10年経っても僕らを取り巻くモノは、さほど変わっていないように思う。
けど、変わっていったものはなんだろう? あの、ものすごく衝撃的な救いの無いラストシーン、以降にも僕らは生き続けているんだ。昨日改めて見てそんなことを考えた。

「魚、好きなのか」
「別れた恋人が置いていったんだ。養育権を押し付けられた」
「名前は?」
「魚の?恋人の? どっちもクレイグだよ」


dedicated to craig lee(1964-1991) and the hundreds of thousands who've died and the hundreds of thousands more who will die because of a big white house full of republican fuckheads.
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2006年06月20日

「ゴールデンタイム―続・嫌われ松子の一生」

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「タナカがいなくなっても、俺はここに足を運びつづけた。ケータイで友だちを呼び出すと、そいつがたいてい新しい人を連れてくる。そうすると俺は、その人とも友だちになる。思いがけず女の子といっしょになったときは、酔った勢いで街外れのホテルに入り、淫らな行為に及んだこともある。さすがにこのときは自己嫌悪に陥ったが、それでも一週間もすると、また駅前広場に立って、ケータイを握っていた。
 なぜ俺は、ここに来てしまうのか。
 答え。ここでは、存在を許されるから。
 この街を歩いていて、未来を感じることは、ない。あるのは、ひたすら『現在』のみ。圧倒的な量の『いまこの瞬間』が、この街には渦巻いている。だから俺は、俺の『いまこの瞬間』を確かめたくて、ここに来る。」



「嫌われ松子」が、あまりにも戦慄だったからこそ、その着地点としてこの小説が必要だったんじゃないかと、僕は感じた。
ほとんどのひとの人生は、めくるめくテーマパークなんかじゃない。だけどもそこに、ある、「普通の」ひとたちの個々の生き方はここに、饒舌にだけれど正直で過不足ない語りがあるんだと、思った。

演劇の声の発声法、
声のベクトルの語り、
ノブレス・オブリージ、
大腸内視鏡、
キャバクラの対人スキル、
玉の輿の婚約。

一々、そんなキャラクターの背負うドラマに、惹き付けられた。
たぶんこの作者は、「松子」よりもこれを書く方がしんどかっただろうなと、そんな、気持ちの描かれる(ストーリー上は必ずしも必要ないであろうと思う)シーンもありながら、それらを読んだ。

なんだか泣きそうになって、それをまぎらそうといろんな友人にメールをしたりした。

僕が24歳のとき、考えていたこと、その時に自分が30歳になったら、と考えていたことは、その一部が実現していて、一部はどこにもなく、それから別のつながりや世間のあり方があって、約10年後の今の僕がある。
今、僕は10年前程に、あんまり怖いものもなくて、考えることもなくて、暮らしている。
今の僕が、これから10年後、40になるまでのどうしたいか、を、10年前ほど緊張感を持って考えてはいない、それがなんだかとても、悲しいけれども。
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2006年05月28日

「あいどる」

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サブカルチュア・メタカルチュアの連なりが大好きなのは自認していますが、「おたく文化」っていうのには実はあまり当事者性を感じずに、育ってきました。

たぶん、浅倉久志氏(翻訳家)や巽孝之氏(評論家・頭良い、好き)がいなかったら、あるいはハヤカワ文庫や創元推理文庫とかがなかったら(本書は角川ですが)、この世に今の僕は構成されていなかったと思う。こんなふうに、輸入され「翻訳」再構成された文化。そんな意味で、僕自身の頭の中こそがメタカルチュアとメタカルチュアとメタカルチュアの塊で出来ているような気がします。

10年前に語られた近未来をいま、目にしていることについて思うと、これはSFとかいうジャンルではないのかも知れない。特に、ニホンのハイテク便器に関する描写とか。ギブスン、大昔読んだ、とっつきにくい印象がなくなってしまっていて、むしろ、ドラえもんみたいな、妙にどこか懐かしいような感覚で読み終えてしまいました。

右脳のどこかに不全があるようなコミュニケーション障害とそれを補完するように発達した仮想現実(カソウゲンジツ)とかネット社会というかたちで表現される、九龍城に比喩される雑多感、当事者性のひたすら希薄になってゆく多様な社会のあり方とか住み心地のよさとか。について、考えたりしてみたりします。
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2006年04月16日

「みんないってしまう」

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「弱くある自由へ」と題した昨日のミニ講演会(http://www.rainbowring.org/)へ行く道すがら、バスの中で読んだ本。

お話は、演者であった彼にとっての研究の大事な一歩だったんだと思う。一方で話を聴きながら僕は、弱いものや事柄を考える自分は、どっちの立場にいるんだろうとか、思っていたりした。
「ディスアビリティ」と「インペアメント」、どちらも「障害」と訳される、不具合や欠損や足りないもの失ってしまうもの、についてのお話。

例えばその「かれ」を考えるとき、自分は、それより強いのか弱いのか。その立場のどちらかによって、視点はずいぶん違う。あるいは「弱い(強い)」自分自身をどう考えるか、とか。 他に聴いていたひとたちは、どう思っただろう?

昔の話だけど「足を踏まれたら痛いと声をあげなければいけない!(だから「運動」していくんだ)」ていう社会運動の物言いに、ちょっとカチンときたことがあったのを、思い出した。そういう声高なあなたは、気づかずに、誰かの足を踏んでいたりしてない保証はあるの?ていう感じで。
僕らがどっかしら弱くてへなちょこでしょっぱいところを持っている。そうして生きている。それを、「ちゃんとする」のでなく、そう出来なかったりもしたりしたくなかったりもしたり、しつつ、そのままで生きる、為にも考えること、やり方はある筈なんだと、僕は思う。

喪失を巡り、抱える人生のあり方について。考えるのもステキなんだと、思ったりした。そんな感じで。


そうそう、僕は、海埜 ゆうこ氏に漫画化もされた「ハムスター」がすごい好き。ああいうへなちょこでイタい物語って。。
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2006年04月08日

「ファンダメンタル」

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へべれけに酔って、電車無くして入ったネットカフェの、18禁コーナーで内田春菊のマンガに遭遇したときには、軽く驚いた。そういう認識は、なかったけれどなあ。。

ときどき、おんなのひとが描く、セックスにまつわることばには、勝てないなあと思うことがある。別に勝ち負けとかではないのかも知れないけれども。
色情という言い方についてだとか、肉食動物だとか、詩歌や、こんなふうなマンガだとか。

たぶん僕の経験上(あるいは僕自身の感性に従えば)、そんな狙いで描かれたものは、7割がた、女性の作家のものの方がエロい。
「せっくす」という行為についての認識が根本から違うのか、「関係性」の切り取り方のテクニックなのか。

「ヤリたい。」とか言ってもただ野放図に「する」んじゃなくて、ただ「しまくる」とかでもなくて、相手と自分自身を、考える、こんなふうなやり方、考え方のテクニックとかスキルがあるなら、身に付けたいなと思ったり、してしまった。その方がたぶん、気持ちいい筈なんだ。そういうのは、なんとなくわかる。

文庫の8ページがとてつもなく好き。

「外でやろうぜ」とか言いつつ自分もそういうの初めてだったり、家族と温泉旅行に行く主人公に「せんべつ」とか言って胸にキスマークを付ける、「安芸男」くんみたいな男がたぶん僕スゲー、タイプかも。あるいはじぶんがそんなふうなことしたいのか、どっちだかわからなくなってくるけど・笑

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2006年03月19日

「日曜日たち」

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風の強い春先の日曜日の午後、職場絡みの葬式に出席するんで、着慣れないワイシャツとスーツを着込んで出かけたときに、携えた一冊。
読み終えたのは、国分寺のマルイの最上階、喫煙室の中。

ていう。

なんていうか、その時の気分にカチッとチャンネルが合ってしまう一冊に出会うのは、ちょっとなかなか無いかも知れない。普段は鼻につく吉田修一の「あざとさ」が、今日はちょうどいい感じに思えた。

ひとは、個々に不安定な関係性を抱きながら、それぞれに生きているんだ。そんなへなちょこな、手イタい、しょっぱい、頼りない、あり方がさりげなく「二人の少年の一日」をひとつの軸として、描かれる。そんな、ひとの関わり方がなんだかすごくいとおしい感じだった。

一番に艶かしく、切なく思ったのは、最初の「〜のエレベーター」かなあ。

--誰かを愛するということが、だんだんと誰かを好きになることではなくて、だんだんと誰かを嫌いになれなくなるということなのだと知ったのだ。--

ああ、そんな惰性な関係を一回、ちょっとだけでもいいから築いてみたい。。
渋谷の喧騒に満ちたバーや、大阪のカラオケ屋とか、中央線沿線の街並みや、雑居ビル4Fの支援センターや、汚れたニッカに片ピアスの青年の照れた笑顔だとか。どれも、この本を読む前からそこにいたような既視感があって、この本を閉じて、家に帰ってからでも、思い出してなんだか軽く、泣きそうになる。
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2006年03月12日

「ハードコア・デイズ(原題:The Fluffer)」

今から10年位前、20代の前半の頃、僕は世の中に何を期待していただろう。

今ほどピースが嵌まらないでいた頃、欲しいものを欲しいと思う気持ちは今よりももっとジリジリとしていたかも知れない。そのために行動する選択肢はさほど多くなかったけれども。

映画産業に憧れる青年が踏み込んだゲイポルノ業界の中で、体験する「はじめて物語」なお話。といいつつ、思ったほどギラギラしたものでもなかったし、奇を衒うものでもなくむしろ微笑ましいくらいにありふれた安心感のなかで、観ることが出来た。

「勃たせ屋」とノンケ・グラビアモデル、という関係性がグッときてしまった。映画の全体を通してそんなふうな、ビデオを見ながらでないとセックスできない元彼、「抱き合って一緒に寝るだけでいい?」という言い訳、「クスリやりながらヤったら途中で意識なくすでしょ?」といいながら拒まない彼女、そんな不全の関係についてさりげなく語られる(気遣いながらも距離を置く、バーのママみたいな「母性」な)視点が、よかった。

たぶん物語は映画のようにきれいに終わってしまったりはしない。
メキシコの町にクジラを見に行った後でも。
このまま年を経て、怖いものが徐々に減っていくにつれて、「欲しかったもの」がわからなくなってしまう気がする。そんな怖さだけが今、うっすら残る。

公式サイト
http://www.fluffer.com
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2006年03月08日

「オールド・エース」

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 原作の「ブロークバック・マウンテン」がゴールデングラブ賞ならびにアカデミー賞に取り上げられたり、「シッピング・ニュース」を読んで(映画は未だ見てないですが・ピュリッツァー賞取ったんだよね)すごく良かったり、して、読みました。

 ずっと、「多様性」と「普通でいること」っていう概念は相反するんだと、思っていたけれど。。

 主人公の青年は、両親に失踪された後、ジリ貧の古物商のおじ(とその共同経営者・ごくさりげなく、同性パートナーな関係も暗示される)に育て上げられ、少年時代、デブでヲタクでパンクな友人と超B級映画を鑑賞するところとかも、それでも彼の、あるいはすべての登場人物のごく平凡、ていう生活が、綿密に描かれます。

 普遍性の切り取り方ていうのは、多層のケーキを切り分けるときのやり方のように、思えます。横に切れば均一な、「普通」を見出すけれど、本来の社会はそのケーキ、縦にして、重ねられている筈。


ゆらぎ【揺らぎ】
大辞林でも 「ゆらぎ」 を検索する


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1 ゆらぐこと。動揺すること。「自信の―」

2 ある量の平均値は巨視的には一定であっても、微視的には平均値と小さなずれがあること。また、そのずれ。気体分子の熱運動、光の散乱、ブラウン運動などにみられる。

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 こんなふうに「普通」っていうのは、平均値であって実は、そうではない。いろんな生活をはらんで、彼らは、営みをする。そんな切り取り方が、いいなと思いました。


 そんな風に読んで、無駄に緻密で描写の膨大にストーリーは、もしかすると読むひとによっては単調かも知れないんだけれど。(同様のジョン・アーヴィングなんかのように計算された盛り上がりには欠けるけれど)。
 表題のしたたかな意味、と、主人公の最後に取った人生の選択と、を考えることが出来ます。

 例えば自分の、ごく近い環境から考えたらば。
 僕の住む団地の脇に少しずつ延びる道路、ずっと以前から、「オオタカの森を壊すな!」って運動がされている。実情は、地元の農家とそこにリンクした市会議員さんと、スローガンに惹かれた生真面目な自然運動家(彼らが、環境実態調査をする)とのいろんな利権や個人のプライドやなにかが、絡んでいたり、するよね?
所沢・東村山での「トトロの森を守ろう」トラスト運動、とかも同じ。

 そういうのについての距離感を図って考える、て方法のほかに、「見据える・観察する」っていうやり方が、あるんだと思う。思いました。


 てより、この本。平原の開放されたなにもない風景とか、厳しい天候とか、男たちの汗じみたシャツとか、汚れたジーンズとカウボーイブーツだとか、馬とか、スペアリブの油したたる食堂だとか、堆肥のニオイとか、そんな詳細な描写に、僕はメロメロになりました。

「映画B・B・M」の前哨戦、なんだと思うので。ぜひ。
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2006年03月03日

「セクシュアリティの障害学」

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昨年の末、障害学研究会の場で、この本の読書会に参加したときのこと。
編著者は盲者であって、PCの言語読み取りソフトからレジュメを耳で聴いて、話をする。そこで話される内容はPC通訳でプロジェクター表示され、車座の参加者の真ん中に手話通訳ボラも座る。個々人は発言の冒頭に「○○です。」と必ず名前を告げるルール、とか。
そんな場に、居合わせた。


ひとびとは、必ずしも同じ、平面の世界に住んでいるのではない。
それぞれの個々人は、自分の世界に住んでいて、それぞれの窓から「世界」を覗きながら、自分の理解し得る概念を自身に翻訳して、理解しながら、生きて、存在をし続けている。
理解し得る概念と自身とが、少し遠すぎる場合、そういうのが「障害」で、あったりする。
「障害学」は、そんな個々のしんどさを互いにどう理解するか、っていうより個々にかけ離れ、情報保障のサポートを要する場面での、効率的な翻訳ツールを探す作業なんじゃないか、とは、その時に思ったこと。


「世界は個々に、翻訳する必要がある」

だから、とりあえず僕は僕自身の為に、こんなツールを使ってみる、試みを始めたんだ。
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